●参観案内
チケット料金 大人:50元;小人:25元
開園時間 夏(4月から9月)午前8時から午後6時
冬(10月から3月)午前8時30分から午後5時30分
古跡案内専用ダイヤル:(06)390-1341‧295-5703
安平古堡専用ダイヤル:安平古堡 住所:台南市安平区国勝路82号
●築城
17世紀、オランダ人は軍事と商業の力をもって今日の安平を占領、防御のための要塞としてゼーランディア城を築いた。1634年完成。明の永暦16年(1662)、鄭成功がゼーランディア城を占領して安平鎮と改称、内城を内務府としたため、台湾人はこれを王城と呼んだ。しかし清代には台江が陸地化してのち安平はその重要性を失い、また清軍がゼーランディア城を破壊して新たに億載金城を建てたため、日に日に荒廃していった。日本統治後に再建、光復後に「安平古堡」と称されるようになった。現在、オランダ時期の遺跡は古堡前方にある外城の南城壁が残るのみである。城壁に根を張るガジュマルの老木は、300年にわたる台江の風雲を見つめてきた。
日本統治時代、日本人はオランダ城と称した。
1930年再建後のオランダ城
●ゼーランディア城沿革
1624 一鯤鯓竹岩の旧址に城壁が築かれた。レンガ材が欠乏していたため、土砂、木材で造られ、オラニエ城と称された。
1627 ゼーランディア城と改称、また城壁の素材を次第にレンガへと変えた。
1633 ゼーランディア城完成、初期の台湾城である。城の規模は、広さ277丈6尺(約925m)、高さ3丈余り(約10m)、三階建て、内外の城郭からなる。
1662 鄭成功がゼーランディア城を攻め落とし、安平鎮と改称、内城を内務府として5か月留まったのちに死去。そのため台湾人はゼーランディア城を「王城」と呼ぶようになった。
1823 台江が陸地化、地理的重要性が徐々に失われる。
1874 日本が牡丹社事件を契機に台湾に出兵、清朝は沈葆楨を派遣し台湾防衛を図った。
1895 台湾が日本に割譲される。台南庁に属する安平支庁が置かれた。
1897 安平税関の宿舎が欠乏していたことから、日本はゼーランディア城の整地を行い、三階建ての税関舎を建てた。
1908 光緒年間、安平埠頭に建てられた鉄製の白い円筒の灯台をレンガの土台の西北側に遷し、灯台守を置いた。灯台は4秒毎に点滅しながら、海上の船舶を誘導した。
1930 日本総督府は「台湾文化300年」を祝うため、レンガ造りの土台の周辺にある官舎や一般住宅を撤去し、同地の公館を展覧及び来客をもてなすスペースに改築した。これが今の安平古堡史蹟展示館である。
1935 日本人は栗山後一の描いた「ゼーランディア城」遺跡図をもとに、現在のゼーランディア城博物館西側の民家を買収、取り壊したのち、大規模な発掘作業を行い、ゼーランディア城西南の稜角堡の基礎を発見した。発掘は日中戦争勃発まで続けられた。
1975 観光年計画に合わせ、台南市政府は環境整備を行い、展望台に三角屋根をつけ、壁を白く塗った。これが現在の安平古堡である。
●参観案内
チケット料金 大人:50元;小人25元
開園時間:夏(4月から9月)午前8時から午後6時
冬(10月から3月)午前8時30分から午後5時30分
古跡専用ダイヤル:(06)390-1341‧295-5703
安平樹屋専用ダイヤル:(06)391-3901 住所:台南市安平区古堡街108号
●台湾対外貿易史
安平は台湾最古の港である。オランダ時期、明代の鄭成功時期、清朝時期、日本統治時期を通じて、一貫して台湾の主要な貿易港であった。清の咸豊8年(1858)、天津条約によって台湾にいくつかの開港地を設けることが取り決められ、最初に淡水、鶏籠、のちに打狗及び台湾府を開港した。同治3年(1865年1月1日)、安平港が開港されると、外国商人が相次いで進出し洋行(外資商社)を設立した。中でもイギリスの徳記洋行、怡記洋行、和記洋行、アメリカの唻記洋行、ドイツの東興洋行は「安平五洋行」と称され、隆盛を誇った。日本統治下でアヘンが専売品目となり、海運業務もまた日本に奪われたため、洋行は相次いで安平を撤退し、洋行の建築物は改築もしくは用途変更が行われた。唻記洋行は大阪汽船株式会社に、東興洋行は安平支庁に、怡記洋行は安平水産学校に、和記洋行は台塩職工宿舎に改築された。徳記洋行の建物は台湾製塩株式会社に売却された。光復後、台湾製塩総場に引き取られ事務所に改築されたが、台湾製塩総廠はのちに移転した。民国68年(1979)、台南市政府企画、奇美文化基金会の寄付によって、「台湾開拓史料蝋人形館」が設立された。現在、東興洋行と合わせて2棟しか残っていない洋行建築は、清朝末年の台湾対外貿易の歴史を見つめてきた。
●安平樹屋(徳記洋行)沿革
1865 安平地区に税関が設立され、正式に開港。外国商人が相次いでこの地に洋行を設立し、時をおかず外国商が雲集、洋行が林立するようになった。
1867 イギリスの徳記洋行が、当時の安平の海頭社に創建された。アヘン、樟脳、砂糖など流通量の大きい物品の交易を行った。前後して創建された怡記、和記、東興、唻記と合わせて安平五大洋行と称された。
1895 日本の台湾領有後、日本政府はアヘン、樟脳などといった流通量の大きい物資を次々と専売制にしたため、洋行の貿易量は激減した。加えて安平港に土砂が堆積するようになり、船舶の積荷に支障をきたしたため、港は次々に閉鎖され、徳記洋行のみが営業を継続した。
1911 安平の洋行が次々に営業停止した後、日本人はそれらの洋行を塩業会社とした。第二次大戦後には台南塩場事務庁舎として利用された。
1979 民国68年、台南市政府が徳記洋行を引き取り、台湾開拓史料蝋人形館へと改修した。
2001 民国90年、樹屋を芸術家に開放、また三期に分けて修築を行い、台南市を代表する名所となった。
●参観案内
チケット料金 大人:50元;小人25元
開園時間:夏(4月から9月)午前8時から午後6時
冬(10月から3月)午前8時30分から午後5時30分
古跡専用ダイヤル:(06)390-1341‧295-5703
赤崁楼専用ダイヤル:(06)220-5647 住所:台南市中西区民族路2段212号
●創建
明の永暦7年(1653)、当時台湾南部に進駐していたオランダ人によって建てられ、当初は「プロヴィンティア城」と称された。安平の「ゼーランディア城」とはるかな空間を隔てて相対している。ゼーランディア城はオランダ総督統治の中枢、プロヴィンティア城は行政と商業の中心であった。
プロヴィンティア城の建築様式は3つの四角い台座が互いに接した構造を採用し、その一つ一つの台座の上に西洋式の建物が建てられている。城は砂糖水、コメのとぎ汁に牡蠣殻の粉を混ぜたものを接着剤とし、赤レンガを主材料にそれを積み立てて築かれた。岩のように固く、300年以上を経た今でも厚い壁と迫持の遺構を見ることが出来る。
300年余りの歴史を持つ赤崁楼の今日の容貌は、反り返った赤瓦、高くそびえる楼閣である。歴史の変転の中、オランダ時代には西洋式の城塞、清朝時代には中国式の楼閣、日本統治時代には陸軍病院、そして今日の歴史文物館と役割を変え、人の世の移ろいを見つめてきた。
民国72年(1983)、内政部によって一級古跡に指定された。
蓬壺書院
プロヴィンティア城―赤崁楼
●プロヴィンティア城(赤崁楼)沿革
1625 オランダ人が布15匹と引き換えに、原住民から赤崁一帯の土地を購入、商館、市街、倉庫、病院を建設し、「プロヴィンティア」街と名付けた。
1653 オランダ統治に抵抗する郭懐一事件をきっかけに、オランダ人は防御のため赤崁に城塞を建て、商業、行政の中心とし、「プロヴィンティア城」と称した。「紅毛城」「番仔楼」とも俗称され、のちに「赤崁楼」と呼ばれるようになった。
1862 台湾中南部大地震発生、すでに老朽化した赤崁楼のオランダ洋式の建築物は全壊した。
1875 沈葆楨が牡丹社事件をきっかけに軍を率いて来台、航海安全を祈願するため、赤崁楼跡地に海神廟を建立するよう上奏した。しかし諸事情により工事が延期、完成しなかった。
1886 台湾知県沈受謙が文教振興のため、赤崁楼西側に「蓬壺書院」を建立、城跡の台基には五子祀(宋儒朱熹、程灝、程頤、張載、周敦頤を祀る)、「文昌閣」を建て、海神廟を完成させた。
1895 日本統治始まる。赤崁楼は「陸軍衛戌病院」として利用され、改築や修繕の手が加えられた。。
1944 日本人がオランダ城塞遺跡の改修を開始。大士殿を解体、海神廟、文昌閣、蓬壺書院門庁を修築。
1960 もともと大南門城内にあった御贔屓碑座を赤崁楼の台座の南側に遷す。
1965 赤崁楼修築、海神廟及び文昌閣の主な木構造を鉄筋コンクリートに変更したが、外観は当初の木造に似せて造られている。また文昌閣を赤崁街の入り口の前から民族路に移転させた。
●観光案内
開園時間:夏(4月から9月)午前8時から午後6時
冬(10月から3月)午前8時30分から午後5時30分
古跡専用ダイヤル:(06)390-1341‧295-5703
延平郡王祠専用ダイヤル:(06)213-5518 住所:台南市中西区開山路152号
●創建
明の永暦16年(1662)から、開台聖王(鄭成功)を祀っている。鄭成功政権の衰退後も、民衆の鄭成功に対する思いは変わらず、オランダを駆逐し台湾を光復させ、領土を拡張した功績を称え、「開山王廟」と称していた。後、拡張修復するも、まもなく倒壊した。清の同治13年(1874)、沈葆楨が牡丹社事件をきっかけに台湾防衛のため来台、上奏して専用の祠と謚号を請い、ついに「開山王廟」は「延平郡王祠」となり、春秋に祭祀も行われた。清の光緒21年(1895)、日本による台湾統治が始まると、鄭成功の忠君愛国精神を宣揚するとともに、鄭成功に日本人との血縁関係があるため、華夷の弁別を強調し、改築して「開山神社」とした。民国52年(1863)再建、中枢祭典を4月29日に行うことが決められた。
沈葆禎題字
●延平郡王(鄭成功)経歴
1624 明・熹宗の天啓4年、日本肥前平戸藩の千里浜に生まれる。母は日本人、田川松。
1630 明の崇禎3年、7歳のとき日本より帰国、容貌は秀麗で、父鄭芝龍はその名を鄭森と名づけた。
1645(明の弘光元年) 隆武帝に拝謁し、国姓を賜る。成功と改名、御営中軍都督に封ぜられ、尚方宝剣を賜る。当時の人々は「国姓爺」と呼んだ。
1646(明の隆武元年) 隆武帝から招討大将軍に封ぜられる。8月、福州を失い、唐王は捕らえられ、絶食殉国する。父鄭芝龍は清に投降し、北京に軟禁される。母は自害して節を全うする。
1647(明の永暦元年)孔子廟に詣で、儒服を焼き、筆を捨てて従軍、抗清復明を誓う。烈嶼郷で清兵への抵抗を呼びかける。桂王が皇帝の位につき、年号を永暦に改める。
1649 永暦3年、「威遠侯」に封ぜられる。金門・アモイを抗清復明の拠点とする。
1658 桂王が再び鄭成功を延平王に封じる。永暦12年5月13日、大軍を率いてアモイを出航、北伐へ向かう。
1661 3月23日、鄭成功は料羅湾から出発し、台湾に東征。
1662 オランダ人が降伏し、台湾を去り、その38年(1624-1662)にわたる占領は終焉を迎える。鄭成功は台南赤崁に承天府を設け、行政の中心とする。天興県、万年県を設置、知県を置いて県務を処理させた。台湾を「東都」と称し、ゼーランディア城を「安平鎮」と改名、澎湖に安撫司を設ける。漢人の典章制度が正式に台湾に導入された。5月8日、安平に病み、志を遂げないまま死去する。享年39。
1875 光緒元年、沈葆楨が上奏して謚と祠の建立を請い、朝廷は台湾府に祠を建てることを許可、また「忠節」と謚する。当局が開山王廟を延平郡王祠と改める。
2008 民国97(2008)年、もと開山王廟の「同心敬」開台聖王神像が、台南市政府によって延平郡王祠に戻され大殿に安座される。旧例を破って祖先の祭事を復活させ、「祠、廟」一体の祭祀空間が復元された。
2010 民国99(2010)年、「誠心敬」、「和心敬」二尊開台聖王の還御を迎え、三座の開台聖王神尊が全て延平郡王祠に還御し祀られることとなった。全台湾における鄭成功を祭る祖廟が再興したのである。
●参観案内
チケット料金 大人:50元;小人:25元
開園時間 夏(4月から9月)午前8時から午後6時
冬(10月から3月)午前8時30分から午後5時30分
古跡案内専用ダイヤル:(06)390-1341‧295-5703
億載金城専用ダイヤル:(06)295-1504 住所:台南市安平区光州路3号
●創建
清の同治13年(1874)、日本は牡丹社事件をきっかけに台湾に侵攻、清の朝廷は沈葆楨を台湾に駐在させ海防の任務に当たらせるとともに、代表を派遣して日本との撤兵交渉に当たらせた。これと同時に、積極的に国防を強化することとし、安平の海防力を高めて台湾府城を保護するための砲台の建築が要請された。ゼーランディア城のレンガ材と洋式赤レンガ建築が利用された。周囲には堀を設け海水を注ぎ込み、幅はおよそ10尺(約3.33m)、水深は大人の背丈ほどもある。城門は東南に開かれた一座のみである。
清の光緒2年(1876)に完成した砲台にはイギリス製18トン前装式アームストロング砲が装備され、台湾初の近代的西洋式砲台として絶大な威力を誇った。砲台の下には三合土で造られた厚さ2尺(約66.66cm)の部屋があり、避砲室兼倉庫として使われていたが、既に破壊され、今は土で埋められている。20世紀初頭、大砲は破壊されて売却され、木の橋は崩壊し、城のトンネルもレンガで塞がれて荒廃した様相を呈した。民国64(1975)年、砲台建設100周年に際し、台南市政府は大規模な修築を行うとともに大砲、小砲のレプリカを作り、今日の景観が形成された。
●億載金城沿革
1874 琉球漁民が漂流先で原住民に殺害されたことを名目に、日本軍が現在の屏東一帯に侵入、清の朝廷は福建船政大臣沈葆楨を欽差大臣として台湾に派遣、軍務を監督させた。沈葆楨は9月から二鯤鯓砲台の修復を行った。
1876 台湾初の西洋式砲台が完成、城郭の入り口の額には「億載金城」の四字が書かれた。これより鯤鯓の海上防衛の重責を担うこととなった。
1905 日本統治時期、砲台は若干の損壊に遭った。光復後の民国64年、政府は砲台完成100周年にあたって大規模な修繕を行い、現在の様相となった。
1999 民国88年、再び修築が行われ、一般公開が再開された。最後の修復の時、地下に埋まっていた遺跡の一部が発見され、ガラスケースで保護して展示に供した。